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私のルーツについて 〜海を渡った丸田家の歴史〜

私が「丸に十の字」を使う訳

誰にも負けない

歴史の系譜と出自

昨年10月、母の他界を機に私は戸籍関係資料を求めて累代の家系図作成に取り掛かった。

父方のルーツは鹿児島の地域にあります。

島津 薩摩 富江藩を含み、長崎の五島列島と結ぶ歴史です。

出自と戸籍の一部情報

私から見てのご先祖。
丸田勘三郎の出生地および出生年月日は不明。
じいさんは丸田小三郎。南松浦郡岐宿村楠原郷570番地。出生地不明。出生は明治30年3月16日。
父は丸田稔。本籍地は鹿児島県肝属田代麗5359番地。昭和5年2月25日出生。

※祖父の戸籍謄本によると「原戸籍ニ因リ出生事項知ルコト能ハサルニ付キ其記載省略」とある。これは、古い戸籍(改製原戸籍)に関する内容を新しい戸籍に書き換える際、ひいじいさん以上のもとの戸籍が傷むなどして出生の正確な情報が読み取れなかったため、出生事項の記載を省いたという意味です。

よって、ひいじいさん(丸田勘三郎)が五島の地へ移住されてきた年月日は残念であるが不明である。

関連記録(戸籍)

丸田小三郎の戸籍記載内容を記します。
大正2年10月25日、前戸主勘三郎死亡により家督相続届出が提出されました。

大正7年2月13日受付・野田ルチト婚姻届出。昭和3年3月1日受付。

昭和16年4月3日、ニ地ノ名称変更ニ付キ本籍欄中「岐宿村」ヲ「岐宿町」ニ変更。昭和32年9月26日午前9時55分、長崎県福江市福江町708番地6で死亡。

同居の親族丸田稔届出同日福江市長受付。同年10月4日送付除籍。昭和32年法務省令第27号により昭和33年4月3日本籍改正。昭和302年法務省令第27号により昭和34年8月13日あらたに戸籍を編成したため本戸籍消除。昭和62年12月1日再製。

  • 薩摩藩の武士(郷士)としての出自
    丸田家の原点は、薩摩藩(島津氏)の城下町にあった曹洞宗の格式高い名刹「大中寺」に先祖の墓所を持ち、大隅半島の重要拠点であった「肝属郡田代村麓(現・錦江町田代麓)」に暮らした薩摩郷士(武士)の家系にあったようだ。
  • 東シナ海を渡り、五島列島へ
    明治時代、曾祖父・勘三郎の代に、かつて朝鮮出兵などで島津水軍と五島勢が共闘し、サツマイモ(甘藷)の民間交流などで深い繋がりがあった五島列島へと渡ったのだろう。南松浦郡岐宿村(現在の岐宿町)の有力な家系である川村家 甚五郎の長女(曾祖母・シヱン)と婚姻(明治29年3月8日)を結び、丸田家は五島の地に根を下ろします。→wikipedia (富江藩と島津薩摩藩の関係)
  • 海のネットワークと福江への定着
    祖父・小三郎は、同じく肝属郡の網元とも深い繋がりを持つ長崎本土(北高来郡田続村)の野田家(祖母・ルチ)と婚姻(昭和3年3月12日)。父である稔(総和52年没)が電気店開業のために岐宿から五島の中心地である福江町へと本籍を移し、福江の古刹「観音寺」を新たな菩提寺として、父から現代を生きる私へと命のバトンは繋いでいる。
薩摩丸田

現在は鹿児島、そして近代産業の波の中で移住した大阪の堺市に父の従兄弟が健在、各地にご縁が広がっていた。
私は、薩摩藩(島津)の気風と、富江藩・福江藩が育んだ豊かな海の文化が織りなす歴史を胸に、この血脈を大切に守り伝えていくのである。


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