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行政の「善意の押し付け」と遺族の意思/住民訴訟、第2回弁論期日を迎えて

本日7月27日、私が原告を務める住民訴訟の第2回弁論期日がやって来ました。

今回の裁判も、長崎地裁へ赴くことなく、五島の裁判所からWEBシステムを利用して出廷する形で行われます。移動の時間や負担が大幅に軽減され、地方に居ながら司法へアクセスできるこの環境は本当に便利になりました。所要時間も10〜30分程度とコンパクトですが、そこで交わされる議論の重みは決して小さなものではありません。

第2回弁論

何が争点なのか?(「子ども社会」に例えると…)

本件は、市が「35年以上の慣習」を理由に、遺族への事前の意思確認を行わないまま市長名で弔電を送り、それに要した公費(780円)の返還を求めている裁判です。

私は弔意を表すこと自体を否定しているのではありません。最大の争点は、「遺族の意思を確認するという基本的な行政手続を欠いたまま、公金を支出することが許されるのか」という点です。

これを身近な「子ども社会」に例えてみましょう。 学校やPTAで、長年の慣例だからと「卒業生全員に名入りの記念品」を贈る行事があったとします。主催する側は「伝統だから」「子供のため(善意)」と信じて疑いません。しかし、受け取る側の家庭の中には「正直使い道に困る」「処分に困る(迷惑)」と感じている人も少なくありません。しかし、「伝統だし、反対すると角が立つ」という同調圧力があり、誰も声を上げられない――。

今回の五島市の弔電問題は、まさにこの構造です。「良かれと思ってやっている」という行政の善意が、相手(遺族)の意思を完全に無視し、断れない状況の中で公金を使って行われてきたことの是非を問うているのです。

提出した準備書面(2)と新たな証拠のポイント

今月15日には、「準備書面(2)」および「証拠説明書(3)」を提出しました。主なポイントは以下の3点です。

  1. 監査結果の誤認への反論:監査委員は本件を「個人的な問題」と片付けましたが、住民監査請求の本質は財務会計行為の違法・不当性を検証することにあり、行政の制度的不備の是正を求めるものです。
  2. 被告自らの「不作為の自認」:私が本件を指摘した直後、市は「死亡報告書」の様式を改め、新たに弔電の要否を選択できる欄を新設しました。仮に従前の運用に問題がなかったのであれば、なぜ直ちに様式を改定する必要があったのでしょうか。この対応自体が、それまでの運用に不備があったことの証拠です。
  3. 他の行政サービスとの不均衡(甲第7-2号証):市が公式に案内する戸籍の届出において、出生や婚姻には記念品の案内がある一方で、死亡届には弔電に関する記載が一切ありません。弔電が全住民にとって周知・定着した不可欠なサービスではないことを示しています。

数字が物語る真実:「本当は不要だった声」の顕在化

「たかが780円の公金」と思われるかもしれません。しかし、市が提出した「お悔やみ掲載数調査」のデータを見ると、驚くべき実態が浮かび上がります。

  • 様式改定前(令和6年度/画像左): 月ごとの「弔電辞退」数は3件〜9件程度にとどまっていました。
  • 様式改定後(令和7年度の2月・3月/画像右): 遺族が意思を選べる新方式になってから、辞退数が一気に月30件超(2月33件、3月32件)へと劇的に急増しました。

この数字は何を意味するのでしょうか? これまで(改定前)は、意思確認の仕組みがなかったために「辞退したくても言えなかった」多くの遺族がいたということです。市側は「弔電は喜ばれている」と主張してきましたが、この客観的データは、「遺族の意思を確認すれば、実は多くの人が望んでいなかった(あるいは不要だった)」という冷徹な事実を証明しています。

💬【毒舌独り言】一般常識とズレてるのはどっちだ?

丸田たかあき
丸田たかあき

ここで、少しばかり毒を吐かせてもらおう。
世間の一般の知人や友人が、不幸を知ったときに「お宅に供花や電報、香典は必要ですか?」なんてわざわざ遺族に尋ねるか? 答えは「絶対に尋ねない」だ。そんなことを聞くこと自体が、遺族の悲しみに水を差す無粋で失礼な行為だと、常識のある大人なら誰だって知っている。結婚式の招待状じゃないんだからさ。

それなのに五島市は、「葬儀業者を通じて遺族に意思確認している」などと言い張る。いやいや、そもそも遺族は身内の不幸でボロボロなんだよ。そこで行政の長からの弔電がいちいち要るかどうかなんて聞かれること自体が、どれだけ余計な気遣いと負担を強めているか、役人共には想像できないのかね。

これからご遺族の立場を経験される市民の皆さん、胸に手を当てて考えてみてほしい。 「市長からの弔電がどうしても欲しい!お葬式でそれをありがたく披露してくれ!」なんて、心底から願っている市民が一体どれだけいる?

一般の参列者は儀礼の有無を空気を読んで判断するし、遺族だって行政の長からの紙切れ一枚(弔電)を特別に希望して披露してもらう必要性なんて微塵も感じていない。それが普通の市民感覚だ。

それを「35年の伝統だ」「地域への帰属意識だ」と自己満足の押し付けを続け、勝手に税金から780円をチャリンと払う。今回の裁判で様式が変わり、選べるようになった途端に辞退が月に30件超へ急増したのが、その何よりの証拠じゃないか。 「必要とされていなかった」という現実から目を背けてきたのは、一体どちらなのだろうね。

結び

行政による「温かみのある行政」とは、画一的な慣例や「善意の押し付け」を一方的に配ることではありません。住民一人ひとりの意志を真に尊重し、耳を傾けることの積み重ねによって成り立つはずです。本日午後からの第2回期日でも、冷静かつ論理的に主張を尽くしてまいります。これからの進展についても、引き続きこの場でお伝えしていきます。

本裁判は「住民監査請求」を提出し裁判に発展した訴訟であります。なぜに裁判!?
答えは簡単です。市監査委員が本来あるべき姿での監査を行わないからです。

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